天麩羅を揚げる

先週の出来事を書くので、厳密には「天麩羅を揚げた」という過去形の出来事だ。

客を饗すときの自宅料理として、ここ最近は「天麩羅を揚げる」ということが多い。理由として考えられることを以下に挙げておく。


■僕の自宅環境が和食に向いている。

僕のウチでは座卓で食事を摂る。
単純に食卓の上のことだけを考えると、テーブルの方が和食も洋食もそして中華だって佇まいを気にせずに楽しめるのものだと思っている。

床に腰を下ろして胡座をかくなりかしこまって食事を食べるという行為には洋食は適さない。ナイフとフォークを使う際に、椅子に腰掛けるのではなく胡座をかいていることは相当に気持ち悪い行為だと思う。

椅子に腰掛けて箸と茶碗を持って食事をしても違和感はない。日本人の生活様式も椅子とテーブルで暮らすことが一般的になっているからだろう。

そんな訳で「ダイニングテーブル」を導入したいと考えたことは何度でもあるし、今でもたまに良質なダイニングテーブルとはどんなものなのかを考えることもたまにある。

しかし、生活というものは食事をするだけのことではないし、食卓の上のことだけではなく、食事をしながら音楽を聴いたり映像を見たり、目に入ってくる部屋の佇まいが気持ちの良いものであるかどうかの方が重要なことだと思う。そうすると、僕の部屋の広さではダイニングテーブルを入れるには広さが足りない。

ダイニングテーブルを使うと生活導線での目線の高さが高くなる。そうするとテレビやオーディオ、そしてその他の家具にしてももう少し目線的に高い位置に配置する方が望ましい。でも、そうすると家具の圧迫感も増すので部屋が狭く感じられるはずだ。

僕は、先持ちの良い部屋にはそれなりの何もない空間が必要だと思っているから、ダイニングテーブルを導入するに至っていない。僕の部屋があと20平米広ければ、すぐにダイニングテーブルを購入するのだろうけど…。


■僕の食生活が和食寄りであること。

食事を摂る際の環境が一番大きいのだけど、そんな環境で過ごしていると、平素から作っておく常備菜も和食になる。各種漬物、佃煮、そんな感じのもののことだ。

テーブルでの生活を続けていたら、そうした常備菜のラインナップに「ピクルスとかザワークラウト」も加わってくるのかもしれない。蕪の漬物や柴漬を食べながら、ナイフとフォークで食べたくなるような献立が食卓にのぼることはなかなかミスマッチだ。

生活スタイルに培われた習慣が和食寄りになっているのだから、日々の生活の中で学習して美味しく作ることが出来るようになる料理も圧倒的に和食が多くなる。

ビフテキを食べたくなり、たまに牛肉を買ってくることもあるのだけど、その場合も焼いたばかりのものをナイフで食べるのでなく、包丁で切って皿に盛り付けて、山葵醤油を付けて食べる…という和食スタイルになるし、そもそもウチにある食器からして、洋食器よりも和食器ばかりなのだから、殊、来客の際には和食で饗そうという気持ちになるのだ。


■天麩羅の御馳走感。

気のおけない仲間との会食は何を食べても楽しいものだ。しかし、少しでも印象に残る御馳走を振る舞いたい。同じ揚物であっても、鶏の唐揚げなどは他で食べる頻度も多い。コロッケなんかは下拵えの手間が多くて料理を出すまでの時間もか掛かる割には、外で買ってきたものの方が美味しいなんてこともある。

天麩羅は外で買ってきたものがとても美味しかったという記憶はほとんど無い。天麩羅屋に行って揚げたてものの食べると相当な御馳走になるのだけど、多くの人にとって天麩羅屋に出掛ける頻度はそれほど多くない。

自宅での食事の際に、それほどの頻度では出てこない天麩羅を、一品ずつ揚げられて火傷しそうに熱いものをひとつずつ目の前に出されたら、それはとても印象に残る御馳走になる。

揚げ手となる僕は揚げることに手一杯で、食べる人とともにその味を楽しむことは出来ないのだけど、それが「饗しそのもの」だと思っている。

そう考えると天麩羅というのは複数の食べ手がいるのならば、饗し料理にはうってつけのものだと考えている。



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写真は「饗し料理の天麩羅」から数日後の僕一人の食卓のものだ。天タネと衣が余っていたので、余り物処理として数日後に天麩羅を揚げたのだ。
揚げながら、揚げたてのものを食べる方が美味しかったのだろうけど、腰を下ろしてゆっくりと食べたかった。そのため、すべてのネタを揚げてから皿に移して食べたのだけど、揚げたてのものに敵うはずはない。それでも天麩羅は美味しいものだと思った。