年末の買出し

普段から「日々食べるものの買物」にはよく出掛ける。

以前は毎日食べるものは、その日食べるものをその日に買いに行きたい。日々の気分や気持ちに合わせて買物が出来るというのはどれ程幸せなことだろう。そんな(買物に出掛けるだけの余裕のある)生活を送りたい。…なんて考えていた。

しかし、最近は買ってきたばかりのものよりも、塩をして寝かしたものの方が美味しいことにも気が付き(熟成魚のことを指す)、何も毎日買物に行く必要もないだろう…とか思うようになってきたが、やはり買物は好きである。


今朝は雨が降っていたのだが、野菜を買わねばならん!と思って、雨の中傘をさして農協まで自転車で出掛けた。面倒ではあったが、近場のスーパーはボッタクリのような正月価格を設定していて、アホのように高くなった野菜を買うことはどうしても嫌だから農協まで足を運ぶことにしたのだ。


農協への道すがらこんなことを考えていた。

今日は雨だ。こんな雨の中、百姓は野菜を収穫するのだろうか?農協の販売所は今日までは営業しているけど、百姓もそろそろ休みたいに違いない。きっと百姓業界にも働き方改革を推奨する動きはあるだろう…とすると、今日は野菜の品揃えも良くないだろうな。それも仕方ない。品揃えが今ひとつだろうけど、農協野菜を買った方が悪徳スーパーを儲けさせるよりかは何倍もマシだ…。と。


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農協に到着して、朝からの大盛況ぶりと品揃えの多さに驚いた。そして「百姓も休みたい働き方改革説」を考えた自分の短絡的な思考を恥ずかしく思った。


我々サラリーマンや一般社会人は、自分たちの属する社会のルールに基づいて生活している。冬休みがやってきて、大晦日もやって来る。そしてお正月には御馳走を食べたい。そんな事も社会のルールによるものだ。

しかし野菜や果実は生命力のままに生活する。
年末だろうが正月だろうが、市場やスーパーが休みになっていたって、そのために成長を止めることなどない。

百姓はそんな作物とともに過ごしている人たちだった。自分の都合で休みたい事もあるだろうけど、作物はそこに合わせてくれない。年末だろうが関係なく食べ頃を迎えて、それを市場価値を持つ状態で世に流通させるのが百姓軍団=農協であった。


今日は葉物野菜を多く買った。
農協の野菜はイベントによる値段の高騰はない。
沢山実る、その時期でも野菜の都合で旬を迎える路地ものが中心だ。

食物の持つ本来の季節感を無視してぶっ壊す一方で、商業利用のための季節感はバカみたいにアピールする。そんな流通会社には極力加担せずに生活していきたい。