梅雨のような休日

先週の土日は市民楽団のライブで忙しく過ごしていたので、新鮮な野菜の買い出しには出掛けていない。

昨日の夜から雨が降っていて、明け方には止んだようだ。今日は一日雨が降り続けるものだと思っていたので、朝のうちに野菜を買ってくることにした。


4月から梅雨入りくらいまでの胡瓜とトマトは本当に美味しくて、この2つの野菜について、気持ちの上ではこの3ヶ月間くらいで年間消費量の8割くらいを食べているような気持ちになる。

農協で買ってくる野菜には生存者の名前が記してある。これは生産者を明らかにすることで消費者にも安心感とかブランドイメージを与えようという目的もあるのだろうけれど、売上分配を便利にする目的もある。

しかし、単なる消費者である僕にとっては「この人のこの作物を買っておけばきっと美味い」という分かりやすいブランディングになるのでとても便利だ。


とある方の作っているトマトが本当に美味い。
食べている最中からコレが無くなることを寂しく思う食物というのは本当に美味しいものなのだと思う。って言って考えてみると、僕はそんなふうに思っていることも多いから単に食い意地が張っているだけなのだろうとも思う。

今日も胡瓜とトマトを沢山買ってきた。
胡瓜は漬物にする。
以前もこのブログに書いたが、ベランダで採れる青紫蘇を使って漬ける青柴漬がますます好評で、色々な人から是非分けて欲しいと言われている。

先日、青柴漬を家族で食べた後輩から「父がこのお漬物は村上重みたいだ!と言っていました」とのお褒めの言葉をいただいた。

京都の名門である村上重のように褒められるのは嬉しくもあるが、僕にとっては「そりゃ当たり前だし、村上重なんかよりこちらの方が美味いけどね」と思っている。

過去の写真を見ながら調べてみると、僕は2016年の暮れに家族と京都に旅行に行っていた。この時も村上重の柴漬を土産として買って帰ったのだけど、数種類買った柴漬全てがアミノ酸の入った調味液で作られていた。

それ以来、僕は村上重は買っておらず、柴漬は野菜と塩だけで自分で作ることに決めている。あれが6年も前のことだったと思うと少し驚く。

塩むすびを握る時に、おむすびの米の重量を計ってそこに大さじとかで計った塩をかける馬鹿などいない(はずだけど、もしかしたらいるのかも知れない…)。

料理なんて言うものは完全に自分自身の感覚でピタリと作れるようになるべきだと思っているから、漬物を漬ける際にも僕は分量を計ったりしない。視覚と手の感覚で適量の塩を使えるようになりたいからだ。

そんな製法だから失敗することもあるが、青柴漬については毎回ピタリの味が決まるようになっている。そんな丹精込めた漬物が市販の工業製品に負けるわけがない。

そんなことを考えながら、これから僕は青柴漬を漬ける。来週には梅干の支度にも取り掛かることだろう。

梅雨がやってくるのは嫌なことであるが、避けて通れないことだ。そんな憂鬱になりがちな時期も色々と楽しく過ごすことは簡単に出来るものだ。