近所の中華食堂

ある晴れた日、僕は一人の老人にともなわれてふらりと町へ出た。老人はラーメン暦四十年。これから僕に、ラーメンの正しい食べ方を伝授してくれるのだという。

僕:「先生、最初は、スープからでしょうか、それとも麺からでしょうか?」

老人:「最初はまず、ラーメンをよく見ます」

僕:「は、はい」

老人:「どんぶりの全容を、ラーメンの湯気を吸い込みながら、じみじみ鑑賞してください。スープの表面にキラキラと浮かぶ無数の油の玉。油に濡れて光るシナチク。早くも黒々と湿り始めた海苔。浮きつ沈みつしている輪切りのネギたち。 そして何よりも、これらの具の主役でありながら、ひっそりとひかえめにその身を沈めている三枚の焼き豚」

老人:「ではまず箸の先でですね、ラーメンの表面をならすというかなでるというかそういう動作をしてください」

僕:「これはどういう意味でしょうか?」

老人:「ラーメンに対する愛情の表現です」

僕:「ははぁー」

老人:「次に、箸の先を焼き豚のほうに向けてください」

僕:「ははぁーいきなり焼き豚から食べるわけですか?」

老人:「いやいや、この段階では触るだけです。 箸の先で焼き豚をいとおしむようにつつき、おもむろにつまみあげ、どんぶり右上方の位置に沈ませ加減に安置するのです。 そして、これが大切なところですが、この際心の中で詫びるようにつぶやいてほしいのです。『あとでね』と」

やがて老人は、シナチクを一本口中に投じてしばし味わい、それを飲み込むと、今度は麺をひとくち、そしてその麺がまだ口中にあるうちに、またシナチクを一本口中に投じる。ここではじめて老人はスープをすすった。立て続けに合計三回。 それからおもむろに体をおこし、フーッとためいきをついた。意を決したかのごとく、一枚目の焼き豚をつまみあげ、どんぶりの内壁にトーン、トーンと軽くたたきつけた。

名作「たんぽぽ」の冒頭シーンを思い出させるような普通のラーメンを食べた。職場のすぐ近くにある中華食堂のもので590円。凝った味などしない、普通に美味しい普通のラーメン。

店員たちの対応も素晴らしい。普通のことを普通にちゃんとする食堂。沼津の八福という店だ。

本当に普通の食堂なのだけど…。