想像料理

なんとも意味有りげなタイトルにしてしまったのだが、「食物の名前は知っているがその実を知らないもの」というのは意外に沢山ある。

ネットで調べればあっという間にそれが何なのか分かる…ということも分かってはいる。しかしそれをしないのは「多少の興味はあるけど本当にそれを知りたいほどの興味もない時」あるいは「ネットでの短絡的な情報収集を避けておきたい時」これは手軽にその情報を知ってしまいたくない、ちゃんと向き合おう…という時のもの。だいたいこの2つに分類されるのだろう、僕の抱く興味というものは。

前者の代表格は「チーズタッカルビ」。これはよく聞く名前だし、数年前にはコレがやたらに流行っていたようにも覚えている。

ふざけて「あ〜、チーズタッカルビ食べたい!」みたいなことを言っていたこともあるが僕は未だにソレを食べたこともないし、しっかりと見てみたこともない。要するに本質的に興味はないのだ。勿論、ソレがどんなものなのかをネットで調べてみたこともない。

 

後者のものについて今日は書いてみたい。何年か前から「鱈汁」という汁物の存在は知っている。どうも東北地方で冬場に食べる美味いもの…ということくらいしか僕はソレについて知らない。

そもそも、僕の育った家庭では鱈という魚を食べるという文化がなかった。大学に入って自炊で色々と貧乏くさい料理を作るようになったり、食文化に対しての興味が湧いてきて「知識としての料理」を知るようになってきてから、初めて鱈という魚のことを考えるようになったくらいだ。

印象的だったのは北陸出身の友人が「冬の鱈の美味さ」を懐かしがっていて、それを聞いた僕も「そんなに美味いものなのか!」と興味を持って下宿自炊料理で鱈を食べてみたのだけど、その淡泊さに大いに肩透かしを食らってがっくりとしたものだ。

それは前述の友人が「大阪のスーパーで買う鱈が不味くて不味くて…」みたいな話だったから、僕がそんなところで買った鱈も「そりゃそうだろう」という友人の二の轍を踏む行為だったのかも知れない。

これは20歳くらいのことだったと思うのだけど、以来しばらく僕は鱈への興味はそんなに持たずに過ごしていた。

 

しかし、30歳くらいからそもそも食意地の張っている僕は各種文献(…と言ってもエッセイやら漫画なのだけど)によって、冬の鱈の美味さに興味を抱くことになる。

多くの方(それは酒を愛する文学者などなのだけど…)が「寒い時期の湯豆腐の美味さ」について論じる時には大抵、鱈もセットで出てくるのだ。

恥ずかしい話ではあるが僕は非常に権威主義日和見者なので、そんな方々が褒めちぎっている「湯豆腐とその中の鱈」の味を分からぬのも恥ずかしいと考え、冬になると湯豆腐を食べてそこには鱈を加えるようにして過ごした。

すると、いつ頃からだろうか、多分35歳くらいの時には「淡泊で身がポクポクとした味気のない鱈」の良さに惹かれるようになっていた。惹かれておきながら鱈に対しては失礼な物言いをするが、「旨味のない軽薄な味」こそが鱈の美味しさ(旨味ではない!)であり、それを料理の熱さと外気温の寒さをあわせて食べることが「湯豆腐の鱈の楽しみ方なのだ」と感じとった…のだと捉えている。

そんな僕がこの数年食べている鱈汁が写真のものである。なんのことはない、湯豆腐をやった時に食べきれなかったものに味噌を溶いて葱を足して食べる「湯豆腐再利用の鱈入り味噌汁」である。

これがまた旨味が少なく、なんだか物足りない。しかし、様式美に惹かれているせいなのか「僕は鱈汁を食べている」という満足感に相当に嵩上げされて、これはこれで美味いものと思いながら、コレを啜り込むのである。

そもそも鱈は足の速すぎる魚で、少しでも古くなると嫌な匂いが漂ってきて全く美味くないものだと思っている。そして、火を入れすぎるとあっという間に身が割れてこれもこれで美味くはないし、更には魚の身から出てくる出汁も本当に感じ取れない。本当に「好きだと思う鱈には失礼な物言い」が続くのだけど、それでもコレは美味しい。

きっと、日本海側の寒い地方や東北地方の方はちゃんとした美味い鱈汁というものを知っているのだろう。それを知りもせずに我流極まりない無勝手流な鱈汁を僕が語る資格もないだろうことは分かっている。

ネットでソレがどうやって作られるものなのかを知ることもないようにして、そのうちにモノホンのソレを味わい、その上でその美味さの構成要素とかそう感じさせる背景が何なのかを調べるようにしてみたいと思っている。