鮨の本

非常に短絡的な「御馳走思考」を持っているから、僕のウチに家族が集まって賑やかに食事を摂るときの献立は「天麩羅、手巻き寿司、鍋物」であることが多い。

これは「御馳走思考」でもあるが「御馳走志向」とか「御馳走嗜好」とも呼べるのかも知れない。

先日の熱海旅行の翌日は皆で我が家に帰ってきて「天麩羅」を食べた。これは主賓である末娘に希望の献立を尋ねたところ「うどんを食べたい」とのことだったので、〆にうどんを出すならば…という流れを考慮して天麩羅を揚げたのだった。

旅行の帰り道にスーパーに立ち寄ってさっと買って帰った食材だったから、天麩羅のタネを見ると特別な御馳走でもない。しかし、揚げたばかりの天麩羅を「親の仇」のように次々と食べるのはとても美味しいものだ。逆に言うと一度冷めた天麩羅は「天とじ丼」などにするとそれはそれで美味しいものではあるが、やはり既に御馳走ではなくなるように思う。

こうして僕たち父子と舎弟の一行は楽しい2日目の夕餉を送ったのだけど、やはりこの時も「僕はひたすら揚げ手」であることに没頭しているので、天麩羅を味わうこともほぼ無いどころか、食卓での会話にもほとんど参加せずに天麩羅を揚げるのだった。

今思い返すと、これは非常に残念なことで「皆で食卓を囲って楽しく過ごしたい」はずなのに、この夜の僕の記憶の大半は天麩羅鍋を見つめているものばかりだったのである。

一昨日の夜、そんなことを長女と電話で話した。その流れから「だったら手巻き寿司にすればよかったね…」ということになり、そこから「寿司」ではなく「鮨」の話を長女と長時間に渡って語り合ったのだ。

 

大学2年生になる長女は今月から鮨屋でのバイトを始めた。銀座の高級鮨店で僕がこの店を訪れることは基本的には無い、悲しいことだが。

そんな店でのバイトの様子やら職人の働きについて長女なりに思うことを聞きながら、我々二人は「やはり腕に職を持つ職人ってイイよな…」と一致する意見を持った。

その翌日、僕は一冊の文庫本を長女に送った。

すきやばし次郎 旬を握る」というこの書籍は、今から10年以上前に古本屋で見つけ、何度も読んだものだ。名店の名職人の仕事について、ふんだんなカラー写真とともに書かれたこの本は鮨のあり方を知るにはとても面白いものだった。

鮨屋でバイトする娘にはどう映るのだろう?身近で汗を流す職人について一層の興味や理解を持ってくれると嬉しいと思っている。