仕事が休みの今日は夏物の洗濯をした。
「夏物」と言っても今日、洗濯したのは半ズボン。ゴールデンウイークから半ズボンを履きはじめ、だいたい10月いっぱいまで履いているのだから「夏物」と呼ぶよりも、僕にとっては「暖かい半期用」の衣類である。
この「暖かい半期(4月下旬〜10月くらい)」は半ズボンとゴム草履を履き、ボタンダウンシャツを着て過ごすことが多い…というか「その格好オンリー」かも知れん…。ボタンダウンについては頻度は低くなるが冬も着るので通年衣料だ。一般に言われる夏らしい服というものを着なくなってから、もう長い。
若い頃はチンピラテイストのアロハやらボウリングシャツを好んでいたこともあるが、この20年くらいは「半袖のシャツがダサい」と感じるようになり、夏の暑い盛りも長袖のシャツを着ている。そんな訳で「僕の持つ夏服」というのは多数の半ズボンくらいなのだが、今朝は最後のそいつらを洗濯した。
「最後の…」というのは、だいたい僕は5〜6枚の半ズボンをローテーションで履くのだけど、涼しくなり始めてからは徐々にそれらを洗濯していた。これから次の4月になるまで、外に出掛ける時に半ズボンを履くこともないはずだから、今朝は最後に残してあった2枚と部屋着で使っているスウェットの半ズボンも洗濯した。
昨夜は半年ぶりに長ズボンのスウェットを履いて過ごした。全国的には暖かな沼津でも半ズボンはそろそろキツイ気候になってきていたから…。
日本には夏と冬しかなくなった…というような記述をよく見るようになった気がする。今日、踝の出る短いズボンを履いて、背伸びをすると腹が出る短い丈のカットソーとジージャンを着て出掛けていたら、やけに寒かった。
「なんだよ!少し前まで暑かったのにもう寒いのか……。もう冬だよ!」という気持ちも分からぬではないが、それが秋なのだと思う。深まった秋なのだと思う。秋はちゃんと存在する。それを感じ取らずに「少しでも寒さを感じたら大袈裟に冬だ!」と言ってるだけじゃないの?感度の鈍さ問題だよ…と思う。
冷房を入れなくなったら秋。温かな汁物の温度を有り難いと思ったら秋。シャツのうえに何かを羽織れる気候になったら「もう秋」なのだ。
そして、シャツとジャケットだけでは寒く感じるようになって、厚手でも薄手でもコートのようなものを着るようになってからが冬。暖房を入れるようになってからが冬。熱々の湯豆腐やらおでんを食べて酒をやり、暖房のないところの空気が頬にあたってそれが気持ちよく感じてからが冬。
僕がこれまでに住んだことのあるところは全国平均的に温かなところばかりだったから、こうした「気候による季節の捉え方」は僕特有のものなのだから、皆に当てはまる訳ではないのだけど…。
食卓に目を向けると、根菜を食べたくなったら秋。今日はどうにも煮染めを食べたくなったから「僕の秋指数」も随分と高まってきたようだ。秋も深まってきた。
この何年も…というか、中学生になったくらいから全く食べたいと思わなくなっていた里芋も、この数年美味いと思うようになった。おっさんになると「おっさんになってから好きになるもの」というのも生まれてくるものだ。
「里芋の入った煮染めの味」を好きになってきたのは「秋ならではの季節もの」かとも思ったが、考えてみると人生においても僕はもうとっくに青春時代を終えており、その先の朱夏も真っ盛り…というか、なんなら白秋に近付いている年代だ。
そうした「人生における秋の訪れ」を感じ取っての味覚変化なのかも知れないけど、日々自分の味覚と食欲には素直に過ごしたいと思った。