普通の日

「誕生日」と「かつて東北で震災があった日」が近いので、3月というのは、いろいろとものを考えさせられる時期だ。

…というのは大いに間違っているのだ!


確かに誕生日というのは、自分の中での期間代わりで新たな年度が始まるような気になるから、ものを考える機会になりやすい。考えることは何も否定されることではない。

しかし、そこで考えたことを一年度には決算報告して成果に応じて税務署に金を納め、納めなければ手痛く罰を与えられる程の真剣さで一年間と取り組んでいるだろうか、僕はしていない。

震災にしたってそうだ。
被害に遭われた人を軽んずるつもりはない。しかし、僕は特に被害を受けていない。人の痛みを機会にものを考えるのも否定はできない。しかし、そんなことはなく震災のあった日に限らず、いつでも考えることだ。

あれから何年…とか、さも痛ましくメディアが扱うのは、本当に災害に対応することについて人々に考えて欲しいからだろうか?単に「風潮」だし「お決まりのネタ」だし「内容はともかくやってる感」はあるし…というように見えてならない。


その人だから、メモリアルデーだから…というのも悪くはない。しかし、メモリアルなだけで本質を捉えないならそんなもの普通の日と変わりはない。

それよりも、何でもない普通の日だから、余裕あるから、疫病だとかいろいろあって出掛けられないから…そんな時にいろいろとものを考えればいい。

ネットの発達で、何もものを考えない馬鹿がいろいろな意見を広く発表するようになり、最近ますますそんな馬鹿が増えているように感じてならない。


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3/11。普通の日の普通の出勤途中の風景。初夏のように暖かな一日だった。