【モノ】とんすい

華美なものであってもなくても、使いやすくて日々の生活に溶け込んでいる好きなモノについて記す。

「とんすい(呑水)」とは、小さい取っ手が付いた小鉢のこと。 通常の小皿よりもサイズが大きく深さもあるので、鍋の取り鉢として使われています。

……これはネットでの「とんすい」の説明だが、これの「呑水」という漢字はどうもしっくりとこない。「のむ・みず」ならばコップやもっと深い椀のようなもののほうが相応しいのではないか。そんなこととは関係なく僕はとんすいが好きだ。

箸を使って食べるものであれば、汁物から煮物、何なら炒め物でも色々なものの取り碗としてとても使いやすい。勿論、その主たる用途は鍋物の食器としてなのだけど。

とんすいの便利さにはずいぶんと昔から気が付いていたものの、僕が写真のとんすいを手に入れたのは6年前のことだと思う。

10年以上前はそれほどのとんすいを欲していなかった。当時の僕にとってのとんすいは「鍋物専用の器」だった。当時から冬の湯豆腐は勿論のこと、夏場のしゃぶしゃぶなど鍋料理はよく食べていたが、鍋専用のものをわざわざ持つ必要もないと思っていたし、何より他にも足りない食器が沢山あったから、それらを買い揃えていくことが優先事項だった。

10年前の僕は丼も揃えておらず、ラーメンなども汎用性の高い深鉢によそって食べていた。これはこれで鉢の口が広くて便利なので今でもこいつを使って食べることが多い。先日の「名もなきラーメン」を食べたのもこの器である。

その後、徐々に生活道具としても食器が揃ってくると僕はとんすいを欲しくなった。もともと道具としてのとんすいを嫌いなわけではないから、ものの順番として考えても当たり前の成り行きだったのだろう。

そこで僕はとんすいを探し始めたのだが、なかなか気に入るものに出会えなかった。食器というものは手に持って、食べる時の姿勢で構えてみて、ようやくその質感や重量がぴたりとくるかどうかが分かる。特に口につくものだから、質感は重要だ。

僕の貧乏臭い性格によるものなのだが、僕は買ってしまったものはなかなか捨てられない。それがハズれ品であっても、いつか何かに使えるかも?と考えてしまい、無駄な荷物を増やすことになる。そんなことを自分でもよく分かっているから、特に食器についてはおかしなものを買わないように気を付けている。

気に入らないものに価値などないのだから、思い切って捨てればいいのにそれが出来ない。しかし、使い勝手の悪い僕にとっては価値のない食器が棚のスペースを占拠しているのを見るのは非常なストレスとなる。

そんなことは考えなくても、変わることのない僕の生活スタイルとして潜在意識の中に刷り込まれているのだから、なかなか気に入りそうなとんすいが見つからなかった。

とんすいが売られていそうなところに足を運んでは、そこに並んでいるものを眺めて、手に取り構えてみる。そんなことを何度となく繰り返したが「もっとイイものがあると思う…」と感じて、そのシーズンはとんすいを買わずに終わる。その年は小振りの御椀のような器で湯豆腐やら鍋物を食べて凌ぐのだ。

そしてまた秋口くらいになると「とんすい熱」が出てくる。都内のデパートを何軒も回ったし、合羽橋道具街にも行ったように思う。それだけとんすいを探し歩くと「理想のとんすい像」が明確化してくる。僕が何年も気に入りそうなとんすいを見つけられなかったのは、何を気に入るのか自分でも克明に分かっていなかったからなのだ。

沢山のとんすいを見て触り、自分がこの道具を使うところを想像してみる。すると自分はこの道具についてどんなことを思うのだろう?そんな「とんすいとの共同生活のシミュレーション」を繰り返しているうちに、「とんすいは、かくあるべし」という理想像がガッチリと固まった。

これをすべて満たすものが写真のとんすいなのである。手に入れてから今年で6年目になると思う。未だにとんすいを手に取るとこれを自慢したくなるし、自分一人で「いい道具を買ったなあ」と悦に入る。恋女房との新婚生活のような関係がこのとんすいとは続いているのである。