桃の節句の翌日

昨日は桃の節句、雛祭りだった。嫁入り前の娘を2人抱える父として、彼女らの幸せを祈って雛飾りを用意して、雛アラレやら白酒を支度して慎ましやかに桃の節句を祝った。

…なんていうことは嘘で、娘の幸せを祈る気持ちに一切の偽りはないのだけど、僕のウチの調度品やら食卓においては特に桃の節句らしいものは支度されていなかった。

そんな中でスーパーに立ち寄ったら蛤が安くに売られているのを見付けた。中国産ではあるが小振りのものが10個くらい入って500円くらい。これが3割引で売られていたので、貧乏性の僕は迷うことなく2パック買ったのだった。

それを肴に桃の節句を楽しみたかったのだが、昨夜はその前からウチにある余り物食材をどうにかして食べ切りたかったので、蛤の賞味は翌日である今夜に持ち越された。

昨夜のうちに塩水に浸して一応泥を吐かせた蛤を鍋に入れ、酒と水と少量の塩を食わせて煮立たせる。

手間も何も要していない一品だが、この旨さ…というか美味しさには、分かっていることなのに改めて驚かされた。

火を入れ過ぎずに多少ツルッとした食感を残した蛤の身を噛み砕き、おつゆを飲む…。「ああ、美味しい…」という言葉が自然に出てきた。

貝から出るコハク酸の旨味とアルコールの飛んだ酒の甘み、それらを多少引き締めてくれる淡い塩味…。これらは「美味い」でも「旨い」でもなく「美味しい」のだと、そんな言葉を発しながら感じさせられた。

貝の出汁というものは本当に旨い。今夜の酒蒸しのおつゆはなんの料理に再利用しても相当な旨味を発揮してくれるのだろう。しかし、そのまま味わうおつゆの美味しいこと!

なにかの料理に再利用することもなく、その旨味を堪能して「ああ、美味しい…」と一人の部屋で呟きながら、全てを平らげてしまうような気もしている。