麺類を食べる

今回もこのブログにゴールデンウィークの出来事を記す。既に楽しい長期休暇も終わり、昨日から「本当にいつもの日常」が戻ってきた。

このゴールデンウィークは本当に楽しく過ごしたのだけど、その「楽しさ」というのは、なにも「賑やかに過ごした」とか「子供たちと会ったから」という表層的なことでなく、そこで僕なりに感じたり考えたりすることが多かったこと、そして今回の東京旅行が色々なことを考えさせてくれる機会になったということが「楽しさ」だったのだろうと思う。

そんなふうに「感じたこと」を少しでも正しく残し、数日前のことを記憶が色褪せないうちに書き留めておきたいと思った。「いつもの日常」が再開されそれに慣れてくると、そうした思い出もだんだんと「当たり前の軽い思い出」のようになるのは本当に勿体ないことだ。

さて、ゴールデンウィークの本当に終盤には末娘も東京のガキどもの下宿に合流した。静岡に住む末娘が上の兄妹の下宿にやってくるのは初めてのこと。そして、東京という街に足を踏み入れるのも彼女にとっては久しぶりのことである。

数年ぶりに上京した田舎者の末娘に「東京で何を食べたい?」と訪ねたところ、彼女が即答したのは「天一のラーメン!」との答えだった。

…。

…。…。

日々の不養生でナチュラルに身体を痛めつけている50歳のおっさんの僕はすっかりと天一という食品に魅力を感じなくなってしまっていた。

しかし「上の兄妹の下宿、そして東京という何でもあるであろう大都会」に大きな期待を持ってやって来た末娘の夢を、僕のコンディションのためだけで壊す訳にもいかない…。

まあ、末娘が天一のラーメンをリクエストすることも無理もなかろう。彼女や僕の住む静岡県には天一の店舗はほとんどなく、小さなコミューンで過ごす末娘にとっては、非日常の街に来ないとそいつに接することもないのだから…。

 

さて、僕は前夜からの背中の痛みも治まっていなかったので、本当はそっとおとなしく過していたかったのだけど、この日は「こどもの日」ということもあり、父子4人で原宿〜渋谷という「クレイジーな子供のような輩たち」が大挙して押し寄せる地帯に出掛け、渋谷センター街にある天一に赴き、そこで末娘のリクエストどおりにラーメンとメシがセットになったやつを楽しんだ。4人前で約5,000円也。

若い頃は週2くらいで食べても全く平気だったし、なんならもっと頻度を上げて食べたいものだ…と当時は思っていた天一のラーメンであるが、今の僕にはなかなかキツい。

しかし、天一に行ってラーメンを食べるならば「こってり一択」だと思うし、それを注文したならば「スープも全ていただく」のが天一に対しての礼儀だと信じているから、僕はセットとして一緒に注文した高菜御飯は残しつつもラーメンはスープまできれいに平らげた。

そんな「僕なりの天一流儀」を理解しない長男と長女は、彼らなりにいいように食べるばかりで、平気でスープも残していた。これは悲しいことだ…と思っていたら、隣席の末娘は僕の残した高菜御飯もさっと手に取るや否や、彼女の丼のこってりスープとともに全てをきれいに平らげた。

若さがなせる技といえばそれだけのことなのかも知れないが、末娘の天一への向き合い方は正々堂々としており、なんなら男前であり僕にとっては理想的な姿勢のように思えた。

 

さて、時間は移りその翌日のこと。

僕たちが楽しかった数日を過ごした東京を去る日の昼食であるが、この日はうどんを食べた。

僕の郷里の味。なんとも「やおい」このうどんと妙に甘いうどんのおつゆ。そのコシの無さは四国讃岐の方には叱られそうなレベルのものだし、彼らはこれをうどんだとは認めてくれないかも知れないようなものだが、僕はこのうどんが大好きである。

この店において僕が「一番の御馳走メニュー」だと思っている「肉うどん」に玉子やら天麩羅やら銘々で好きなものを加えて3人前で約2,500円也。

何だか、出掛けた先での外食というと麺類ばかり食べたゴールデンウィークであったが、少し考えてみると僕たち父子の「外食における麺類率」はとても高い事に気づいた。

麺が好き!ということだけでなく、きっと毎回財布持ちとなる僕のセコい無意識の意識みたいなものも作用しているのかも知れない。

しかし、自宅ではなかなか再現することも出来ない外食麺類を啜りながら、そして僕以上にそれらを美味そうに食べている子供たちを見て、こうした時間もたまにはいいものだと感じたのだった。胃袋は相当疲れたけどね。