盛大な会食を支度する

この間の土日のことだ。引越す前に所属していたバンドの仲間3人を招いて、遅くはあるが新年会を開いた。バンドを辞めたあとも時々ラインでやり取りを続けている「気の置けない仲間たち」である。

彼らを招くにあたり、僕はしばらく前から入念なる支度を続けていた。我が家に人を集めて会食をするうえでの基本的な食器やら道具は揃っている。しかし、人を呼ぶという行為には「妙な見栄みたいなもの」も伴うようで、足りてはいるのだけどよりより便利なものが欲しくなり、僕は玉杓子やらバターナイフやら普段使っているものは揃っているのに「これがあったほうがもっと気持ちよく飲食できるだろう」というようなものを幾つか買い足した。

調理用具なんてものはその時だけの使い捨てではなく、その後も基本的には永久的に使うものなのだから、そんなに無駄遣いをしたとも思っていない。こうした機会でもないと格上の道具を買うこともないので、ケチで勿体ながりの僕の生活を少しでも向上させるには「こんな時の見栄」も多少は必要ではないかと捉えている。

道具などはこうしてステップアップしていって、本当に使い勝手の良くないものは僕の日用品の中からは排除されていくのだろう。これはこれで必要な新陳代謝のようなものだ。

しかし、食物はそうでもない。

その時を最高のものにするために土曜日には張り切って買い出しに出掛けたのだが、これは過剰に買い過ぎたのだった。

これまで出掛けたことのなかった隣町の市場に行ってみると、沼津では本当に見ることのなかった田芹があった。芹だけではない。普段の買物では接することのない美味そうな野菜の数々を見つけた僕はホスピタリティに加えて、持ち前の意地汚さが遺憾なく発揮されてしまって沢山の野菜を買った。

続いて訪れた別のスーパーでも「これがあれば皆が喜ぶだろう」とこちらでも魚介を中心に盛大に買物をしたのだった。

 

結果、僕が支度した料理の数々は客人たちにも喜んでもらい、楽しい宴会の時間は本当にあっという間に過ぎた。月曜日の朝に目を覚ました時には土日の2日間が僅か数時間だったようで、金曜から土日の2日間をすっ飛ばして月曜日になったのではないかと感じるくらい!

 

どれだけ楽しく過ごしても「宴の後」はやはりやって来る。昨日も、そして今夜も、沢山買った食材やら残した料理やら、普段の僕の食卓には過分と思えるような贅沢食材を使っての食事が続いている。

どれもこれも美味しい食材であり美味しい料理なのだが、一昨日のほどの美味しさは感じられない。

素敵な仲間と食卓を共に囲んだ後の一人の食卓というものは、その落差なのか寂しさを感じてしまう。そして食物の持つ実力以上にその美味しさを感じ取れないものなのだ。後遺症のようなものだけど、これも「楽しい時を過ごした税」の一つだと思うようにしている。