昆布締めを食べて思うこと

今夜の夕食にはイサキの昆布締めを食べた。数日前に買ったイサキの切身をその日のうちに半身を湯漬にして食べ、残った半身を昆布締めにしておいたものだ。

自分で昆布締めを作って食べるのは10数年ぶりのこと。若い頃は白身の魚を昆布で締めるなんてことがとても雅やかなことのように思い、一時は割と頻繁に作っていたような記憶もあるのだが、もう10年以上昔のことになる。

イサキの切身から骨を抜き、水で柔らかくした昆布に挟んで冷蔵庫で放っておくだけのもの。手を入れてはいるが、料理というような手間のものではない。

昆布で締めたイサキは「これがイサキ?」と思う程に濃厚な旨味のあるものだったが、これは僕にとって褒め言葉ではない。昆布の旨味を魚に移して食べているだけの「旨味カサ増し食品」のように思えたからだ。

玉子かけ御飯に味の素の粉末を振り掛けるとメチャメチャ美味しくなる…という意見と全く変わらないように思えたのだ。

数日前に食べたイサキはなんだか水っぽくて、魚の持つ旨味が全く足りないように思った。刺身で食べるには物足りなくて迷うことなく湯漬けにしたのだけど、その湯漬けにはしっかりと旨味が滲み出していて美味い湯漬けだった。

その味に接してみて「物足りない!」と言い、昆布の旨味を追加する。すると今度は「外連味がある!」と文句を言うのだから身勝手なのだけど、自分で作る料理など感想に矛盾があるものだ。

ならば「この先、昆布締めはやめるのか」というと多分、時には作るだろう。客を饗す料理にはやはり「異様な旨さを持つ献立」というのもそれなりに持て囃されるからだ。

いつだったか「炊いたメシに鶏ガラスープのもとをまぶし込んで美味いおにぎりを作った」なんていうネット記事を目にした。僕はそれを「馬鹿のすること」と思ったのだけど、昆布締めもそれとそんなに差のないことなのかも知れない。