豆ごはんの不人気ぶり

少し前のことだけど、今年も豆ごはんを炊いた。

大した手間のかかるものでもないが、子供の頃から好きで、やはり春の終わりになると「これを食べておかなければ、夏を迎える訳にもいかんだろう…。」と思うような食物なのである。

長女も豆ごはんが好きなので、朝炊いて炊きたてのものを朝ごはんに食べて、そして弁当に豆ごはんを持たせた。そして僕もその日は豆ごはんを昼の弁当にした。

そして、一度に沢山炊いた豆ごはんはすぐに冷凍して、数日に一度の割合でレンジで温めては「この安価な春の味覚」をその後数日楽しんでいる。


こうして僕は今年も豆ごはんの美味しさを享受しているのだが、この美味しさを周辺に話をしていたところ、四面楚歌どころか全方位的に否定的な意見が返ってきて驚くほどだった。

確かにグリーンピースという食材自体を好きではない人がいることは知っていたが、それでも「なぜ豆ごはんがここまで嫌われなくてはならないのか?」と気の毒になるくらいに、僕の周辺では不評だった。

豆ごはんを美味しいとしか感じ取れない僕からすると、否定的な意見を持つ人を理解出来ない。まあ人に広める必要もなく、僕とそれを好きな長女あたりが存分に楽しめていればそれでいいのだけど……。

ゴールデンウイークの混雑

今朝テレビを見たら「数年ぶりの規制のないゴールデンウイークで、観光地がごった返している」というような特集をやっていた。

まとめて休みが取れて、どこかへ出掛けて遊ぼうと思う気持ちは分かるが、テレビを見ていると馬鹿ばかりが各々の意見を言っていたので感想を記す。


観光地は混雑し、マナーを持ち合わさない客が散らかしたゴミに困る。そんなことを観光地の商店関係者などが言っていた。

そもそも土産物屋なんていうのは観光地にやって来るアホな客のおこぼれでメシを食わせて貰っているのだから、ゴミなんかは土産物屋たちが片付ければいいだけだ。

観光地の余録でメシを食わせて貰っているやつが観光地のケアをするのは当然だ。勿論、ゴミを散らかさないという人間としての民度を守ることが大切だ。しかし、観光地の傍で手前だけが利益をあげようというムシの良い考えを持っては駄目だ。


観光地に行ったら付近の飲食店もごった返していて、ちゃんとしたものが食べられなかったと被害者のように嘆く客。その土地で美味しいとネットなんかで評判の良い店に行ったけど入れなかったので、そこらで買い食いをして食事を済ませた。こんな奴がいた。

こいつは自分自身が元凶であることを分かっていない。お前がやって来るから混雑するのだ。

美味いものを食べたいのなら、ちゃんと混雑状況も踏まえて日程を組めばいい。無計画に飲食店にやって来て、混雑していることに文句を言うやつこそ、ちゃんとしたものなど食べられなければいい。


未だに「休暇にはゴミゴミとした観光地に出掛けないと休日を無駄にした」なんて考える人もがいる。長い休みに時間をかけないと出来ない旅をするのは大いに結構だ。しかし、人でごった返したところに言って、それについて文句を言うくらいなら出掛けなけりゃいいのにと本当に思う。

わざわざ煩わしい場所に出掛けて、そしてストレスを持って帰って来る。そんな行為で休日に過ごす馬鹿とはあまり関わりあいたくない。


この文はこどもの日の昼頃、まさにゴールデンウイークに書いている。長閑な河川に寝転がりコークを飲みながらだ。

いい場所なのにおそらく半径500メートルには10人も人はいないのではないだろうか?ここはアホの集まる観光地とは違って本当にゆっくりとした時間が流れている。

心地の良い初夏の風に吹かれ、陽射しをたっぷりと浴びながら過ごす午後。素晴らしい時間である。

春と夏の狭間の御馳走

昨夜は娘たちと食事を摂った。

春の終わりの御馳走としてタラの芽の天婦羅を食べさせることを主眼においたのだが、この他にもあれを食べさせてあれも…なんて思っていると、あっという間に晩春と初夏のオールスター食卓のようになった。


楽しい時を過ごしていたので写真はない。
写真を撮る場合ではないほど、その時間を楽しんでいたいことは意外によくある。飯屋で美味いものが出てきた時など、写真を取っている場合ではない。

そう思うと、写真を撮りまくってこうしたブログに載せている人たちは「ブログを書くこと」が目的であって「美味いものを美味いうちに美味く食べること」なんて本当に追求はしていないのだろう。


さて、昨夜の献立を書き出しておく。

■トマトと紫蘇(自家製初物)のサラダ
■胡瓜の糠漬
■胡瓜の辛子漬
■青柴漬
■葉生姜とエシャロット(練り味噌)
■そら豆の塩茹で
■タラの芽と茶葉の天麩羅
■昆布と紫蘇と山椒の佃煮
■白飯(鰹節、梅干、白胡麻)
■あんこのパイ

胡瓜とトマトが美味い季節になってきた。
あらためて書くほどのことではないくらいに、この時期の胡瓜とトマトの美味さは常識的なことだ。冬の寒さが厳しくなる時期に脂ののった鰤が美味いとか秋の新米が美味いとか、そんなレベルのことである。

しかし、スーパーに並ぶ胡瓜とかトマトは四季を問わずに同じように売られているし、これら野菜の旬など気にせずに感受性乏しく食べている人も多いのだろう。

食卓から季節を感じることなど簡単なことだが、疎かにしてしまうことも簡単に出来てしまう。それには面倒くらがらずにマメに動くことが一番!なんて思いがちだが、それは違う。季節を感じる食卓の楽しさをしっかりと味わうことが一番だ。その楽しさが原動力となる。

美味しいものを楽しく楽しむ食卓。こんな生活を大切にしていきたい。娘たちと胡瓜を噛りながら強く思った。

ジージャンを育てる

昨日の涼しさ(肌寒さ?)とは一転、今日は初夏らしい素晴らしい気候だ!

このブログを書いているのは夕方前なので、まだ陽も高く行楽日和そのものの一日が続いている。

そんな素晴らしい天候のもと、今日も朝からベランダで本を読み、ジージャンと革ジャンの手入れを行った。いずれのジャンパーも僕はしょっちゅう着ているし、大切に着込んで経年劣化をエイジングとして育てていく喜びのある衣類である。

ジージャンは昨夜のうちに腕の部分をガチガチに糊付して、表に干しておいた。腕の曲がるところにより深い皺が入りることでカッコよく育つ。

リアルな曲がり皺が入った状態で糊を固めたかったので、昨夜風呂場でジージャンを着用して、その上から丹念に糊を付け、皺が伸びないように注意しジージャンを脱いで、その状態を維持するようにハンガーに掛けて干しておいたものだ。

腕の部分は透明人間が着ているのではないかと思わせるほど立体的にパリッと乾いている。

バリバリに糊の効いたジャンパーはとにかく着込んで馴染ませて、そして深く味のある皺が刻まれていく。このために早速ジージャンを着て近所の公園にラッパの練習に出掛けたのだが、思いの外暑かった。

このため、ジージャンを脱ぎ捨ててそこらに置いておいたのだけど、その立体振りには少し驚いたほどだ。

風呂場で裸になってジージャンを着込んで、その上から洗濯糊を塗り込んでいく。体にも糊が付くから当たり前のように、肌がペタペタするのだけど、そんな状態でリアルな立体的な皺が入るようにジャンパーを整えてハンガーに掛ける。そして、ペタペタした裸体のまま大急ぎでジャンパーをベランダに干す。

外を歩く人に見つからぬようにジャンパーを干していると「こうまでしてジージャンを育てなくてはならないのか?」と自問自答したくもなるが、答えは「当たり前だ。そのくらいの愛情を注げぬ奴がジージャンを育てることなど出来ない。」である。

こうして僕は、バキバキ過ぎて着ていると肩も凝るし体が痛くなるジージャンを、体に鞭打ちながら日々着るのである。

22年版 シソイッパイニナアレ

先週の金曜日から始まったゴールデンウイークも中盤である。

前半は東京に出掛けて息子や友人との邂逅にウエイトを置いて過ごしていた。特別に計画を立てている訳ではないが、残りのゴールデンウイークは普段やり残している事を丁寧にこなして過ごしたいと思っている。

昨日は仕事に出掛けていたので、今日から改めてゴールデンウイークが始まったような気持ちで朝から色々な事をこなしていく。


去年の今頃のことだが、僕はウチの近くにある空地とか「なるべく人の手が入らなさそうな土のある場所」を探しては紫蘇の種を蒔いてみた。

幾つかの種が芽を出してそれなりに育ってみたりしたものの、盛夏を迎える前にはそれら全ては息絶えてしまい悲しい思いをした。

それなりに育っていたのは2箇所。
その他に今思い出してみると6箇所に蒔いたように思うのだけど、そこからは芽を出すことすらなかった。

紫蘇というのはとても生命力の強い植物と聞いていたので大概の場所で勝手にどんどんと繁殖していくものだろうと思っていた。しかし、僕が種を蒔いた紫蘇は全ての場所で繁殖することもなく、更には「そのために手入れして世話もしていたプランターの紫蘇」すらコガネムシ被害によって種をつけることもなく絶滅してしまった始末だ。



今日は「去年蒔いていない近所の土のある場所」を探して何箇所かに種を蒔いておいた。肥沃な土のある空地などある訳もないから、砂利のような場所ばかりなのだけど…。

種を蒔いた場所はいずれも近所なので、その気になればいつだって簡単に様子を見ることが出来る。一箇所だけは今日ではないが遠く離れたところにも種を蒔いておいた。


これらの幾つが芽を出すのだろうか?
なんとか芽を出して葉を茂らすことが出来ても、夏の暑さや水不足、雑草駆除、そしてコガネムシの襲来とか紫蘇が面するであろう障害は数多くある。

これらを上手くいなして無事に育って欲しいと思いつつ、ウチのベランダに増設したプランターにも紫蘇の種を蒔いておいた。


松谷みよ子の「花いっぱいになあれ」の「コン」ではないが、今年も「シソイッパイニナアレ」と願うゴールデンウイークである。

休みのうちにやっておくこと

メモである。

①部屋の掃除
②冬物衣類を片付ける
プランターの増設
④そこらに種を蒔く
⑤ラッパの練習
⑥ソロを書き起こす
⑦革ジャンと革靴の手入れ
⑧読んでいない本を読む
⑨昆布を炊く
⑩漬物を漬ける
11】カレーのペーストを作る
12】あんこを使い切る


ゴールデンウイークの後半は天気は良いようだ。

別にゴールデンウイークじゃなくても出来ることばかりなのだけど、これまで棚上げしていて「そろそろやっておかねばならん」と思うことをささっと書き出したら12もあった。
 
考えていけばもっと出てくるのだろうが、そんなものはまた思い付いた時にやっておけばいい。とりあえず、この12項目については済ましておきたい。

寒い春

どうもこの春は例年よりも寒いような気がする。

今年の気温と例年の平均気温を数値で調べた訳ではないから「そんな印象」なだけなのかも知れないが、そんなふうに感じていることは事実である。

春を印象づける出来事のある日に天気が悪く、そして期待していたような気候ではなくて寒いと感じることが多いからだろう。

4月の頭の息子の引越のときは、2月並みの寒さだった。そして、一昨日も雨で暖かな初夏とは程遠い気候だった。

平日は会社でデスクワークをしているので、暑くても寒くてもその気候を感じ取る時間は本当に短い。気分も開放的ではないから、気持ちの良い気候であったとしてもその心地よさを充分には感じ取れていないはずだ。

要所要所の春らしい、いや、初夏の爽やかさを感じ取りたい時に限って爽やかでもなくむしろ寒いような日がこの春は多いのだろう。


そんな肌寒い休日の今日は、朝から農協に出掛けて胡瓜とかトマトを買ってきた。

4月になってから青柴漬を作り始めた。
予想出来ていた範囲ではあるがとても美味しく漬かったので、先日の上京の際に息子と平素から世話になっている友人に与えるために、その大半を瓶に詰めて持っていった。

これで僕のウチには青柴漬のストックは僅かになったのだけど、安価に漬けられてそのうえ美味しいものであれば、ためらうことなく多くの人にあげたいと僕は思っている。

それでも僕も日々の食事に食べたいので、今日は質のいい胡瓜をどっさりと買ってきて第二弾となる青柴漬を仕込んだところだ。

多めの塩で重石をして、一週間もする頃に紫蘇と生姜を加えてそこから二週間ほど熟成させると酸味と塩気が程よくこなれ、そして旨味と紫蘇と生姜の香りが爽やかな柴漬が出来上がる。この夏は何度、この柴漬を漬けるのだろうか。



暑い日は続かないが、ベランダ菜園の成長も順調だ。

ゴールデンウイークの後半辺りには収穫できるのだろうと思っていた紫蘇も既に摘み取れるくらいに育った。今日仕込んだ胡瓜には自作の紫蘇を加えるつもりだ。ふんだんに摘み取っても次々へと茂ってくるので、プランター栽培の紫蘇は本当に重宝する。買わなくても済むのだから。

そして、ついこの間まで小さな芽だったクレソンもだいぶ大きくなっていた。摘み取って食べるにはまだ早すぎるが、この成長ぶりをみているとあと二週間もすると食べられるようになるのだろう。

こうした菜園の成長を喜んでいると、春の気候を楽しまなくともあっという間に初夏になり夏になるのだろう。