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麦シャリを食べるようになって10年くらいになる。
立原正秋の小説に麦シャリのことが書いてあり、興味をもって食べ始めたのがきっかけだと思っている。

洗練された美味しさという点では銀シャリに遠く及ばないが、麦には麦なりの美味しさがある。ボソボソして、ポロポロくずれて…って、これでは悪口か?

噛み締めると素朴な甘味があるように思うが、美味しいから麦を食べているのではない。あれが銀シャリより美味しいと言う人はちゃんと炊いた美味しい米を食べたことがないのではないかと思う。「米のメシ」といったって、工業製品のパックに詰められた保存食品の御飯を食べるくらいなら、麦シャリの方が当たり前に美味しいけど…。

「素朴な美味しさがある」というのは事実だが、それは米と比較しての優位性ではない。

水加減も水を沢山加えないといけないし、蒸らしにも時間がかかるし、浸水にも時間がかかる。銀シャリよりも手もかかるのに食べている理由は健康のためである。

麦を食べていると体調がいい。前述の立原小説では「麦を食べていると(肝臓の調子もよくて)、酒がよく飲める」みたいなことも書いてあった気がする。

実際、麦によるデトックス効果は凄い。といいながら、これは単なる感覚論だから医学的な裏付けはなにもない。しかし「健康に気を付けて麦を食べている」という行為が気持ちを元気にしてくれているのだろう。

これは信心や信仰と何ら変わりはないようだ。「病は気から」「鰯の頭も信心から」「ソウルパワー!」…など。多くの物事がこんな感じなのだろうと思う。