「慣れない食物」への興味

さて、大層なタイトルをつけたが大したことを論じるわけでもない。最近の出来事から思い出したことをこちらに記しておく。

まず、タイトルについて話をするのだけど、これからの話は僕が中学生の頃の記憶である。それは、当時の僕の母が僕に対して熱弁を奮っていたことなのだけど「これまで食べたことが無いものに対して、変にバリアを張るやつは大したことのない奴」という話だった。

彼女の説によるものだが、経験したことのない食物に対して変にそれを恐れたり、固定概念で距離を置いている人は新たなものを取り込もうという意欲が欠如しているのであり、そんな人は大したものにならない。日本という国は鎖国をやめての開国以降、莫大に進歩しているが、これも「なんでも食べてみよう」「なんでも取り込んでみよう」という好奇心によるものであり、保守的な考え方ばかりでは進歩することはなかったのだ…という持論だった。

 

こうした説が正しいものとして世の中に捉えられているのかどうかは、その後の僕は調べてもいないし、今となっては疑問も感じる乱暴な説のようにも思うのだけど、中学生の僕は「まさにその通り!」とばかりに「新たなものにもまずは手を出すことが美徳」とばかりに色々なものを取り入れたりする少年時代を送ったような気がする。

この説を「より正しいものとして息子に説明する」為に、僕の母が用いたのは身近な親戚の生活スタイルである。

僕の父方の祖父は僕が小学6年生の時に他界したのだが、子供心に見ている分には様々なことへの興味を忘れることなく、話題の幅も広く実に魅力的な人物だったのではないかと思う。友人も多かったように見られる。

対してその伴侶である祖母は「保守」を体現したような人で、一度気持ち悪そうと感じたものは決して口にすることもなかったし、生活スタイル自体を彼女なりにピシッと決めていたように思う。それ故、人としての幅は極端に狭かったのでないか…と今になって思い出してもそう感じたりする。

ただ、その当時から35年くらい経った今になって思うのは、母によるタイトルの説明は「育児の中で好き嫌いを言わせない為の母親としての方便」だったのではないのか?とも思うのだけど、全てが間違いではないのかも知れない…と50歳の僕は思ったりもするのである。

経験値として色々なものを取り込むのもいいことだし、自分の価値観を尊重して己を貫くことも悪くはないだろう。そして、食物に対する姿勢が生活全般に当てはまるかと言うとそんなこともない。非常に奥床しく紳士的な振る舞いをする人が食物にだけは賤しい…というともあるかも…。…って、そんなことは滅多にないか?

 

さて、昨日の話だが、仕事で伊東を訪れた僕はスーパーに立ち寄った。アオキという静岡県東部に展開するスーパーは割と面白いところだ。

スーパーというのは各店舗で画一的なものを揃えて、それらを大量仕入れすることで販売価格を下げるという手法を取るところが多い。アオキの魅力についてはまた別稿に記そうと思うが、この日は「マンボウ」が売られているのを見つけた。

本日 おすすめ大人気「伊東産まんぼう刺身」

100g あたり158円

●まんぼう

食べやすい大きさにちぎり、そのまま生でワサビ醤油で、又は湯引きして酢み社、ポン酢でお召し上がり下さい!

(こんな食べ方あります。試してください)

ペーパータオルで水気をよくとり、てんぷらや、フリッター、からあげで!唐揚げ粉は水溶きタイプが最適です。煮付けでもおいしいです!!油で揚げたら、温かいうちにお召し上がり下さい! 水気が多いいので冷めると水っぽくなります。

…とのこと。

25年くらい前に仕事で伊東に来た時に、地元の鮨屋マンボウを食べさせてもらった。ただ、それは「ヒャクヒロ」と呼ばれる腸を湯掻いたものだったように思うのだけど、その味を含めて細かな点は思い出せない。「マンボウのなにかを食べた。そしてそれは特に美味いものではなかった。」ということだけが記憶に残っていたのだ。

味覚が変わり、25年後に50歳になった僕が食べると美味しくなっているかも知れない…そんな期待は全くしていないが、何だか懐かしくもありマンボウを買って帰った。

添えられていた肝と一緒に山葵醤油で食べたのだが、これは魚なのか?と思うほど魚らしい旨味はなく、クラゲほどではないが多少の食感と微かな魚の生臭みを口に残す不思議な食物だった。

肝についてはそれなりに肝らしい旨味もあるように思うのだが、白く光る身の部分が全く旨味がないので一緒に口に入れた肝も単に生臭いものというように感じられた。

スーパーのポップには「大人気」と書かれていたが、僕には全く人気のない魚だ。ただ、これを食べ慣れた人からすると、これこそが伊東の味なのだろうしマンボウが大好物という人もいるのだろう。

味を覚えていない食物への好奇心を満たすという意味では昨夜のマンボウは面白い一品であった。しかし、問題なのは身も肝もまだ半分ばかり残っているということ。もう食べたくないけど勿体無いから捨てる訳にもいかん。どうしようかと悩む朝である。