生活道具としての文化鍋

このブログに2年間以上、日々の暮らしの中で思うことを書いていると「僕の思うことなんて、同じようなことのループなのだな」と思う。

生活全般についてだいたい書いているのだけど、本当に極個人的なこととか、イライラした政治やら行政についてのこととか、仕事のことはあまり書きたくない。

ここには差し障りないことばかり書くことになるのだけど、そうするとやはり同じようなことを同じようなを時期に僕は考えているだななあ…とよく分かる。

もう何度か書いているのだけど、僕の好きな「文化鍋」について今日は記しておく。


僕は酒を飲むことが好きであるが、米のメシを食べることも好きだ。だから太るのだけど、米のメシは本当に大切だと思っている。

普段は麦シャリを食べるようにしているから「米のメシ」が大切なのではなく「ごはん」と呼ばれるメシ、言わば「ライス」が大切なのだ。ここで言う「ライス」は銀シャリも麦シャリも含むから、それらを総じて「メシ」と呼ぶ。


メシなんて、本当に多くの人が食べているものだけど、美味しく炊いたメシにこだわらずにテキトーなメシを当たり前のように食べている人が多いように思う。

米の質を突き詰めていくと全国には美味しい米なんて沢山ある。高価な米ほど美味しいだろうことは僕も分かっているが、そんな米を選んでいるとメシの価格なんて数倍変わってくるだろう。更に炊くときの水をなんかの天然水にしたりした方が、そりゃ美味しくもなるのだろうが、そんなのは僕には分不相応なこだわりである。

「メシを炊く道具にちょっとこだわること」と「炊きたてを食べる」ということだけで相当に美味しいメシを食べられると僕は信じている。

何万円もする電気炊飯器でメシを炊いて食べる人もいるが、そんなものに金をかける必要もないだろうに…というのが僕の意見。数千円の文化鍋で相当に美味しいメシを炊くことが出来るし、どれだけでの機能を持つ炊飯器で炊いても保温していたメシはマズい、と思っている。

美味いメシを食べたいなら炊きたてを食べりゃいいんですよ!食べ残したメシはタッパーとかに移して食べる都度に温めりゃいいんですよ!と信じて疑わない。


そんな訳で僕は平素から文化鍋でメシを炊いて食べるし、いちどに多く炊いて食べきらないものは冷凍して電子レンジで温めて食べている。


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写真は一人暮らしを始めた息子に買い与えた文化鍋だ。
文化鍋の良いところはメシを炊くだけでなくとも、スパゲッティーを茹でてもいいし、量の多い豚汁とかカレーを作るときにも役立つところだ。

一人暮らしを始める際に「何が一番必要か?」と考えるとメシよりもまずは寝床だったり、寛げるだけのテーブルや座布団とかなのかも知れない。短期的にメシのことを考えるとメシなんて外で食べたり買ってきたもので済ましたりすることも出来る。

しかし、じっくりと生活を考えるならば、やはり自分でメシを炊いて腹を満たす事を考えることが大切なのだと思っている。

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引っ越してすぐの、テーブルもまだない息子の下宿で炊いて食べた銀シャリは格別だった。

「日常茶飯事」という言葉の中にも含まれる「飯」というもの。平凡なものでもあろうこいつを大切にする生活を、僕は送りたいと思っている。

ベランダ菜園のパセリを食べる

ゴールデンウィークが来たかと思うような爽やかな気候だ。

午後になって陽が入らなくなった僕の部屋は少し涼しいが、窓から入ってくる風が気持ちいい。

実はこの春に買った青春18切符が一回分余っていて、更には今日が使用期限の最終日なので、最後の18切符を使用して息子のところにでも行って下宿設備を整えようかと思ったのだがそれは止めておいた。

残った18切符を無駄にすることは勿体無いのだが、今日18切符を使う旅に出ると明日からの一週間はクタクタになるに違いない。未だに先週の疲れすらまだしっかりとは取れていないように感じるのに、それを敢行するのは返って不経済なことだと判断したのだ。

今更言うまでもないのだが、僕にはケチくさいところが多分にあって、ものを勿体ないと思う気持ちも人の数倍だと認識している。

しかし、この18切符を今日という日に使うことでの痛手は「1回分の18切符を無駄にする勿体無さ」を上回るものだった。そんな訳で休日である今日はウチの周辺でのんびりと休日を楽しんでいる。

一週間の疲れを取り除いて更にリフレッシュするには申し分ない「ゴールデンウィークのようなイイ気候」だ。こんな日を長い時間の列車移動に費やす方がどうかしている。


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そんな休日の昼食はパセリのスパゲッティ。
爽やかな休日の昼間にスパゲッティをのんびりと食べられるのは嬉しくなる。とても気持ちのイイ時間だ。スピーカーから聴こえるハードバップも心地よい。

今日の昼、僕が楽しんだ食事はカフェとか好きな婦女子が喜びそうな献立に見えるが、こいつはなかなかハードな食べ物だ。パセリはプランター菜園でワシャワシャに伸びたやつ。とにかく消費しないと伸びた葉っぱが固くなりそうだったので、多量に摘み取ったものだ。

一般に料理に使うパセリなんて僅かなのだけど、そんな量では消費しきれない。まな板の上がモサモサになるくらいにパセリを用意し、遠慮することなく茹で上げたスパゲッティに加える。スーパーでこの量のイタリアンパセリを買えば1,000円は超える量だ。


さて、僕の愛するパセリは「オランダの芹」という意味を持つようで、パセリのことを当て字で「和蘭芹」と漢字で書いたり、「香芹」とも書いたりするそうだ。「香芹」なんて文字通り「香る芹」なのだからよく出来た当て字だと思う。僕のウチのやつは「伊太利和蘭芹」と書くのだろうか…。


塩茹でしてバターで味付けしたスパゲッティと多量のパセリ。程よく茹で上げた熱々のスパゲッティにバターを絡めてバターパスタと言う人もいるが、それはパスタとバターを共に勿体無くする食べ方だと思う。アルデンテどころではなく、相当に芯のある状態のパスタを茹で汁ごとバターで「煮て仕上げる」のが美味しいバターパスタであると僕は信じている。

そこにたっぷりと加えるパセリ、いや、「香芹」は相当の風味と苦味を持ちまさに香草である。苦味のある野菜を好まない人の口には全く合わないだろう。付け添えレベルではなく具材として沢山のパセリが入っているのだから、そりゃそうだ。


18切符については無理に消費せずに見送ることが出来た。しかし、パセリの葉を見送ることは出来なかった。勿体無いものは誰がどう言おうと勿体無いのだ。

好きな食物について

今朝、久しぶりに刺身の茶漬けを食べた。

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この「刺身の茶漬け」という食物のことを僕がどれ程好きか、そしてそれは「茶漬けではなくて湯漬けである」ということを何度もこのブログに書いたように思う。


昨日はニベを買ってきて、夜はそいつの刺身で酒を飲んだ。ニベという魚にはそんなに馴染みがない。「ニベもない」という言葉で知るくらいで、いつが旬なのかとかどんな姿をしていてどんな生態なのかも知らない。

美味い魚としての話題にも登らないからなのだろうか?昨日は大振りの切身がとても安く売られていた。僕が大好きな半額セールではない。普通にとても安かったのだ。


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そんなニベの刺身は歯応えこそないが身には旨味があり美味しかった。……と言ってみたが、白身魚の身上は歯応えである。甘く上品な味だったので「美味しかった」と評してしまったが、それほど美味しくもなかったのだろう。

美味しかったら夜のうちにバクバク食べてしまい、今朝のお茶漬けはなかったかも知れない。……と言ってみたが、僕は美味しい魚であっても翌日の茶漬けが楽しみなのでしっかりと我慢して刺身を残すほどだ。ニベの美味しさに関係なく、今朝お茶漬けを食べることは切身を買った時には運命付けられていたのかも知れない。


さて、それ程までに好きな「刺身茶漬け」であるが、随分と久しぶりに食べた。年が明けてから初めてのようにも思う、もう4月だけど。

そんなことから思い返してみると、今年は刺身の茶漬けどころか刺身自体を食べることが減っていた。これは間違いない。

考えられる理由としては
①土日に用事が増えたので魚屋に行く機会が減った。
②庶民的なオカズを作って食べることが増えた。
③倹約意識から無意識に刺身を敬遠していた。

こんなところだろうか。

しかし、昨日のニベは大きな切身が500円だった。昨夜刺身を食べて、今朝は茶漬けを食べてもまだ半分残っている。刺身は高い食べ物ではあるが、このニベにおいてはテキトーな惣菜を買ってくるよりも割安なように思う。

なんだか忙しい日が続いてたことを理由に、美味しいものを食べるための工夫をサボってしまっていたようだ。倹約していても美味しいものを食べることは出来る。ものを考えることを止めてはいかんな…。

春爛漫

先週の寒さが嘘のような暖かさだ。

冬のような寒さの中での下宿準備はとてもしんどかったので、息子の引越が今日のような日だったら本当に良かったのに…と思うほど。

さて、今日は日差しもたっぷりと降り注いでいるので、朝からカーテンを洗濯した。

このウチに引っ越して来てちょうど2年が過ぎた。その間にカーテンを洗濯した記憶がないし、その前のウチでもカーテンを洗濯したような気がしない。

2年前に新たに買い足したカーテンもあるのだけど、僕は数年洗わないカーテンと共に過ごしていたはずだ。パッと見て汚れが酷い訳ではないが汚れていない訳などない。

4つの窓に掛けられた白いレースのカーテンを取り外して洗濯機に放り込んで洗剤と多めの漂白剤を入れる。すると見る間に薄汚れた水が出てきた。莨のヤニやら料理をした際の気化した脂とかホコリとか、とにかく数年分の汚れは目に見える形で水に現れてきた。

忙しさにかまけて、このところ部屋を念入りに掃除をしていなかったように思うが、気持ちのいい天気の休日に朝から部屋を掃除するのは「天気による気持ちよさ」を数倍にするように感じる。

カーテンの洗濯を待つ間にアイスコーヒーを飲み莨を吸う。ベランダではこの春に新たに植えたプランター植物たちがすくすくと芽を伸ばしている。


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これは一月くらい前に種を蒔いた紫蘇。去年はゴールデンウイークに蒔いたのだけど、早くに種を蒔けば収穫時期も早くになるだろうとの期待を込めて3月に種を蒔いたのだ。

紫蘇の成長は暖かさと完全に比例しているように思う。種が芽を出してからの数日は暖かい日が続いていたので成長も早かったように思うのだけど、寒い日が続くと停滞した。そして、この数日の暖かさと日差しのお陰で再び成長に勢いが付いているようだ。


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これは3月の下旬に種を蒔いた九条葱。
芽を出した様子はそのまんまだけど芽葱だ。

プランターでどこまで成長するのかよく分からないけど、僕の食卓に青ネギが上る頻度は高いので、この夏は葱を買わずに過ごせるようになることを期待している。九条葱と紫蘇、冷奴の薬味が完全自給になるなんてどれ程素晴らしいことか!


春爛漫の気候を楽しんでいると、そのうちに初夏の気候がやってくる。梅雨に入るまでの爽やかな時期は本当に気持ちがいい。その時期を楽しみに待つのもいいが、春も終わりに向かっている。春爛漫と言えるうちに、春を存分に楽しみたいとも思う。

春はどんどん過ぎていく

気が付くと4月に入って一週間が過ぎる。

この一週間は本当にバタついていたので、あっという間に一週間が過ぎたのだが、一週間を振り返ると盛り沢山に色々なことをしていたのでこれも仕方あるまい。

息子の下宿作業で数日ウチを空けていた間にベランダ菜園が賑やかになっていた。


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密度ミチミチに生やしていたイタリアンパセリは摘んでも摘んでも次々に伸びてくる。付け添えの青味どころではなく、イタリアンパセリだけで青菜炒めを作らないと消費が間に合わないレベルで茂って来るので「困ったような嬉しい気持ち」である。

こんなパセリも子孫を残そうという本能を持ち合わせていて花茎が伸び始めていたので、そいつらを摘み取った次第。

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このプランターのパセリたちにはもう一年鮮やかな葉っぱを茂らせて欲しいので、ここで花を咲かせて生涯を全うされては困るのだ。摘み取ったパセリは葉だけではなくて茎に至るまで僕の食卓に上る。



もう1つのプランターのパセリは更に立派な花茎を伸ばしまくっている。

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暖かな気候の続くこの数日は一日に4センチくらい茎を伸ばしているが、このプランターには別の種を植えてもいいだろうと思っているので、こいつは好きに伸ばさせている。もうじき花が咲くのではないだろうか。

その他、この春に撒いた種も芽を出していて、こいつからが夏までには色々と収穫出来るようになるのも楽しみなのだけど、これらの様子はまた別稿に記す。


忙しく過ごしているうちに春は過ぎていく。
毎年同じように感じているのだけど、年月の流れなどそんなものなのだろう。こちらの忙しさなどお構いなしに気候に合わせて成長していく植物のほうが素直に季節を感じ取っている。

仕事や生活の移り変わりでかんじる季節も大切だけど、それ以上に植物画感じ取る素直な季節感も敏感に感じ取れる生活を送りたいと思う。

「只より高いものはない」と言うが…。

先日の愚息の引越の際に思ったことを書く。


息子は進学する大学から程よく近く日常生活を送るにはそれは便利な下町情緒溢れる街に住むのだが、それはそれとしても新生活を始めるには何やかやと金がかかる。

学生の一人暮らしとは言え、その際に支度した家財道具なんて、ともすれば一生使うようなものだってある。

実例を挙げると、ってこの場合の実例は僕の生活のことを書くのだけど、大学に入学して一人暮らしを始める時には実家から母親が同行してくれて、下宿から割と近くのダイエーで生活道具を買い揃えてくれた。


当時から30年経つのだけど今でも使っているものと言えば「コンポのスピーカー」と「玉杓子」だ。この2つをこんなにも長く使うとは思ってもいなかったが、こいつらは今でも我が家でかつやしている。

両者とも大したものではないのだけど(そんなことを言うと買い与えたくれた母親に申し訳ないのだが…)、10年くらい前からは「あの時、買って貰ったものだから大切に使わなくては…」みたいな意識で大事に大事に使っている。


さて、実例を挙げてみても30年後の今でも使っているものなんて少ししかないのだけど、それは僕の商品選定能力が劣っていて、30年後にも使えるようなものではなく数年でダメになるような長い使用に耐えきれないものを買って貰っていたなのだからだと思っている。

食器などは、男子学生の乱雑な扱いだから割ったりチップしたりするのだけど、フォークやスプーン、そして日常で使う道具なんてほぼ一生使えるものだ。使えなくなるのではなく、デザインや使い勝手で使わなくなるような粗悪なものを最初に手に入れてしまうと、結局は「安物買いの銭失い」になるのだろう。

そんな目線を持って息子の家財道具を揃えてもいたのだが、やはり安くに抑えたいという思いも強い。いや、そちらのほうが強くなるくらいに何やかや揃えるには金もかかるのだ。

そんな葛藤を持ちながら下宿の設備充実を進めていると、近くのゴミ置き場にカラーボックスが捨てられているのを見つけた。

昼間に見つけたのだけど、一日目の下宿作業を終えて、夕食の宴席中にも僕は「そのカラーボックス」のことが気になっていたので、夜中に息子と手伝ってくれている舎弟を連れてカラーボックスを拾いに出掛けた。


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拾って持って帰ってきたカラーボックスは、現在、息子の下宿で存分にその収納力を発揮して主力商品家具として活躍している。

誰が買ったのか分からないけど、ふつうに金を出して買うには趣味の悪すぎるピンクのカラーボックス。安易な収納家具の代表格であるカラーボックスで尚且ダサさ全開の品ではあるが、こいつはロハなのだ、そう只なのだ!

そのカラーリングも相まって「捨てられて当然」のようなものではあるが、今ではそこに貼り付けられた「粗大ゴミシール」すら愛おしく思うし、悪趣味なピンクのカラーリングすらもパンキッシュでお洒落に見える。

贅沢を覚えること

今は月曜日の夜で、僕は先週の土曜日の朝早くから、息子の一人暮らしの手伝いに出掛けていた。

大学の入学金やら下宿を借りる費用とか、これから揃える家財道具のために、金など幾らあっても足りない。まあ、これは僕の収入レベルでの「幾らあっても」という話なのだけど…。


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そんな訳で僕たち親子は下宿探しの時に続いて18切符を使い、鈍行で住み慣れた町を旅立った。

リュックサックにスーツケース、そして両手に竿とか金具を持っての移動は「昭和の夜逃げスタイル」とでも言おうか…。あるいは「戦後のヤミ米買い出し親子」とでも呼べそうな格好だったと思う。

これから何度かに分けて、息子の一人暮らし補助の際に思ったことを書くのだけど、今日は体が覚えた贅沢について記しておく。


今、僕は自分のウチに戻り、2日ぶりにゆっくりと風呂に入っている。息子の下宿にはシャワーしかないので、湯船に浸かることなど出来ない、湯船が存在しないのだから!

今夜の風呂はそんなに熱くなく、どちらかと言うとややぬるいくらいなのだけど、こうしてゆっくりと風呂に浸かってしっかりと汗を流すということをしなくては「ちゃんとした生活」をしていないのではないか?と感じることに気が付いた。

シャワーを浴びて洗髪もしているが、身体の汚れというよりも体内の疲れ成分を洗い流していないような感覚だ。やるべきことをやらずに取り敢えずごまかしている…みたいな気持ちになるのだ。

考えてみると、ここ数年の僕は間隔あけても1日くらいで長風呂に入っている。週のうち5日くらいは一時間以上湯船に浸かっているのではないだろうか。

これをやってようやく人心地がつく。

毎日、一時間も風呂でのんびり過ごすなんて贅沢な時間の使い方のように思うし、実際僕も贅沢に入浴生活を楽しんでいると思う。しかし、これがないと体の疲れが取れないような気がするのだ。


そして2日間、僕は息子の下宿のフローリングで寝袋に入って眠っていた。この三日間は季節外れの寒の戻りで2月並みの寒さになったようだ。

そんな寒い日だから、フローリングから背中に伝わってくる寒気も結構なもので、朝目を覚ましたら背中やら腰がガチガチに強張っていた。勿論、体も冷えている。これに懲りたので二日目はダンボール作ったマットを敷いて、毛布を一枚プラスして眠った。

昔からダンボールというのは素晴らしい道具だと思っているのだが、先週末もダンボールの恩恵を受けまくったところだ。これにより、背中からの寒気は随分とカット出来たのだが、そうなるとマクラが欲しくなる。

これにはダンボールを小さめに折り畳んで対応したのだが、おおよそ三角柱になったダンボールを寝かしてマクラにしているだけなので、首が動くとマクラも共に動き、ともすると延髄斬りを喰らうような形で首の上辺りに三角柱の一角が当たったりするのである。

床の対策が出来れば次はマクラ、快適さを求める欲張りな気持ちは留まることがない。



ちょうど30年前、僕が大学生になった時、何に憧れたのか思い出せないが「どこでも文句を言わずに眠れる男」になりたいと思っていた。

これはのび太くんのような居眠り好きのことではない。荒野で焚火にあたりながらハットのつばをおろして眠るようなアメリカンなガンマンみたいなイメージである。

このため、僕は一人暮らしを初めて当分の間、フローリングの床で眠ったり、寝袋で寝たりしていた。「慣れ」というのはすごいもので、そのうち僕は本当にどこでも眠れる男になっていた。布団なんかで眠る時には快適すぎてのび太くん並の早さで眠っていた。

そんな思い出からも30年。
僕はすっかりと贅沢を覚え、床などでは寝た気がしないようになってしまった。「慣れはすごい」ので、しばらくフローリングで眠る生活を続けるとそのうちにどこでも眠れる男になるのだろうが、そうなりたいとは今は思わない。