「好き」自体を考える

革ジャンが好きである。

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僕はロックンローラーではないし、バイクにも乗らない。パンクについては聴きもしない。

しかし、そうした人たちのアイコンと言うか、紋切り型のレッテルのように言われる革ジャンが好きだ。



シングルブレストのシンプルさもカッコいい。エレガントな雰囲気の漂う、良質な革で作られたものは素晴らしい。

そして、ダブルブレストのギミックやタフに見えそうなデザインもカッコいい。

更には見ていてデザイン的にカッコよくても僕自身が着用したらどう見えるか?似合うかどうか?を想像するのも大好きだ。



どんなところが好きなのか?
どういうものが好きなのか?

そんなのは取り留めもなく出できて、材質やデザイン、鋲やファスナーの素材やエイジングの程度など、こだわるポイントは数多くある。それらをクリアして、だいたい気に入ったものを持っているけど「絶対的な満足度」を満たす革ジャンは持っていない。

高いお金を払えば、形の上では気に入ったものが手に入ることも分かっている。事実欲しいものもあるし、見つかっている。しかし、理想の革ジャンの条件の一つに「そんなにも高価ではないもの」という項もあるので、真の理想のものとはなかなか出会わないのだ。


革ジャンについて、好きなところや理想はいくらでも挙げられる。しかし、何で好きなのか?と問われると細かな説明など出来ない。「カッコいいから」と単純に返答し、それ以上を求められても「好きだから」としか返答出来ない。

これは恋愛と同じようなものなのだろう。理解をしようと理屈を並べるよりも気持ちが先に進む。色々と分析して「好きになる要素をひとつずつ理由付け」することだって出来なくはないが、そんなのは本当に屁理屈なのだろうし、好きになるのは条件ではなく感情の問題だ。



まずは感性を重んじること。
そして、一応その感性の出処を分析して考えてみること。これが大切なことだろうと思う。

感性だけで動いていて失敗しない人もいるが、それはごく一部の天才なのか、運のいい人だ。

同じように好きなものに出会うために、そして好きでもないものに出会わずに幸せに暮らせるように、自分は何が好きで何が嫌いなのかは分かっていなくてはならない。

革ジャンを切口に、そして恋愛を引き合いに出したが、この事は趣味の音楽や映画、料理や睡眠方法、あるいは職場環境や人間付き合いなど、「好きと嫌い」という感情が起きうる全ての物事に当てはまる。

Don"t Think!Feel!
これもカッコいい言葉だけど、最終的にはものを考えないと「好きなもの」に囲まれたカッコいい生活は出来ない。