テイネイナセイカツ

もう何年か前のことである。

仲の良い「漬物舎弟≒頻繁に飲む飲み友達≒生活スタイル全般を語る友達」と喋っていた時のことである。

その頃の僕らと言うと、出来合いの惣菜とか出来合いのちょっとしたツマミでお手軽に酒を飲むのは極力避けよう…という意図のもと、「割合ちゃんとした季節の酒の肴」を用意しては、一緒に酒を楽しむ仲間だった。

スーパーで食材を買い求め、極力、素材を活かすような調理方法でその日の食物を楽しもう…なんてことを考えながら酒を楽しもうとしていると、それなりに手間は掛かる。

そんな行動を美化する言葉として後輩舎弟が言い出したのが「丁寧な生活」だ。


あとから聞くと、そのワードはローカルラジオの女性パーソナリティが喋っていたものだったのだが、その当時は世間全般的にも割と流行っていた言葉だったようにも思う。

そんな言葉に半分は感銘らしき感情を抱き、そして半分は「なんだかこっ恥ずかしいような気持ち」を持ちながら、僕達は「丁寧な生活」を心がけたものだ。

燻製を手作りし、漬物を漬ける。
それ以前から行っていた「僕にとっては割と普通の行動」を目一杯肯定するような便利なワード「丁寧な生活」。マスターベーションを覚えたての中学生がそれに没頭するように、いい年をこいたおっさん二人で、いや、時には別の友人も交えて「丁寧な生活」を楽しんだ。厳密に言うならば「行動自体に変化はないが、それを丁寧な生活と称すること」を楽しんでいた。



そんな「丁寧な生活」が全面的にこっ恥ずかしい…いや、クソ恥ずかしいものになった瞬間のことはよく覚えている。

なんかの雑誌の記事で「女性がこぞって憧れる丁寧な生活を実践してみたら、月の生活費が100万円を超えた」という、当時妙にもてはやされていた「丁寧な生活」と真っ向勝負して、そいつを堂々と打ち破る記事だった。

本質的に「丁寧に生活を送ること」は大切なのことなのだけど、そこに目をつけて消費拡大とか販売促進を絡めてくる商業主義的な丁寧な生活が世に蔓延っていた。「新興宗教テイネイ教」とでも呼ぶくらいのおかしさだった。

自炊もせずにコンビニでメシを買い食いするような丁寧な生活とは程遠い女が、サークルKの弁当をやめてナチュラルローソンの弁当の買い食いに切り替えるだけのような「軽薄な丁寧」志向を、その記事は全面的に笑いものにしてしまう内容だった。


それ以来、僕の中では「丁寧な生活」という言葉自体が上辺だけの「最低な生活」を意味し続けている。

今の僕は「こだわり抜いて選び抜いた生活」をしている…なんてふうに、カッコいい生活を目指すのならば堂々と偉そうにカッコつけたらいいのだ。


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写真は「当時読んだものではないが、古本屋で見つけた新興宗教テイネイ教の経典」。この経典の著者は筋金入りのカッコつけ野郎なので、今のこの本が馬鹿にされていることなど意に介さないと思う。